2006年06月27日

06_23〔市民記者は客観的になれない〕


 さて、市民記者にとって、ジャーナリストが持つべき矜持である中立性・客観性はどうなるのか。
 私は自分のふるまいに対して、誠実で内省的であれば、それでよいと思っている。市民記者の記事そのものがインテグレートされたものである必要はないと思う。市民記者の書く記事は、その個の持つバイアスを元に提出される。それをインテグレートするのは読み手であったり、それを編集・掲載する側だと思う。
 市民参加型ジャーナリズムの記事に質を求めるという議論があるが、質の中身について定義をせぬままに論をすすめるのは、私は浅薄だと思う。私が市民記者の記事に求めるのは、旬の記事、鮮度の高い記事である。それは、対象との時間的な距離、心理的な距離の両方においてだ。
 もし、批判の尻馬に乗って、市民記者たちが平行取材や資料集めなどを始めてしまったら、記事としての新鮮さは失われてしまうのは勿論、市民記者が市民であることやめ、出来の悪いジャーナリストになるだけ。それこそ、その記事の質が問われてしまう。
 市民記者が紡ぐべきは、ローデータとしての輝きのある記事である。市民が市民のまま記事を書くことが、市民参加型ジャーナリズムであって、市民がジャーナリストになることではない。

 市民は、自らに謙虚に、自分に起きたことを正直に誠実に語ればそれでいい。情報を発信する市民は、嘘を書かないということさえ守れれば主観的であっても許される。ただし、自らの主観の存在を明示したうえでのことだ。
 中立や客観はメディアがめざせばいいことで、市民記者にはその必要はない。
 市民記者の書く記事は、落語・目黒のさんまのようであってはならないのだ。

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06_22〔市民はニュースを提供できるのか〕


 ジャーナリズムが扱う情報を、社会構成員にとっての有価値情報と定義しつつも、それだけではニュースにはならない。何もよりも「新しい」ことが、ニュースである重要な資格である。
 だが、実際はどうだろうか。
 情報提供者である市民記者が匿名にしたり、ハンドルネームで特定されないようなことをしても、記事の当事者が読めば、「あいつが自分のことが書いている」と分かってしまう。 そうなれば、市民記者と記事の当事者である取材対象との良好なコミュニケーションの継続は難しくなる。
 例えば、子供を学校に通わせている親が教育問題に直面したとしよう。だが子供を学校に通わせている限り、学校の批判記事は書けない。いくら社会正義を貫いたと胸を張っても、娘が自分の帰属するコミュニティーから異分子としての扱いを受けるのなら、メリットはない。書けるのは、娘が卒業してからである。
 市民にとってそれ程までニュースを書くことは難しい。
 何年か経って、自分に損害が及ばない頃になってようやくニュースをリリースすることができる。時間を経過しても、その記事にニュースバリューがある情報は、限られるに違いない。
 ただし、時間が経過しても、過去の情報が魅力を失わない場合もある。それは、個人という文脈で情報がリリースされる場合だ。
 たしかにニュースという意味では価値が薄くなっているのかもしれないが、個人というエッセンスを加えれば数ヵ月後、数年後の情報であったとしても、ニュースバリューはありつづける。何よりも個が個としての文脈を持ち続けてインターネットに存在することが重要だと思えてならない。

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06_21〔市民は何のために生きるか〕


 人間は自分のために生きるものである。そう素直に考えてはいないだろうか。
 私が育った昭和30年代は、おせっかいでうっとうしいんだけど憎めない近所のおばさんやおじさんがたくさんいました。やれ「スイカを切った」、「赤飯を炊いた」と、近所のこども集めて振舞うおばさん。こどもが危ない遊びをしているのを見て本気で叱っているおじさん。
 昔はそういう、人間の善意に根ざした自然発生的な地域コミュニティーがあった。
 しかし、昨今では地域コミュニティーが崩壊したため、個人がそれぞれの生活の快適さや欲望の充足のことだけを考え始め、自分のためにしか生きることができなくなってしまった。でも、人のため、地域のため、世間のために何かをしたいという善意は人の心に満ち満ちている。それは、自然災害が起こるたびに自然発生的に起こるボランティアのうねりで実感できる。
では、何故、地域コミュニティーが崩壊したのか。
 私は、その原因のひとつに「私人のプライバシー権の乱用。および、その拡大解釈」があるのではないかと考えている。
 人づきあいが始まれば、摩擦するのは当然のこと。そして、そういう摩擦を乗り越えたときに御互いに対する理解が深まる。しかし、プライバシー権の過度の尊重という概念が、人付き合いへの勇気のなさに言い訳をあたえている。
 それは、フラットな人間関係の場合に顕著だ。地域社会や小学校の保護者会など、フラットな横並びの集団では、摩擦が起きても、それが集団全体の問題に発展しない。結果として、摩擦の当事者が集団から隔離されるだけ。これがコミュニティー崩壊の実態だと思う。
 横丁から雷親父が消えたと嘆く人がいるが、そういう人たちに限って雷親父を擁護しない。他人の子を叱っても、周囲ら白眼視されるばかりでは、雷親父が地域コミュニティーから放逐されてもあたりまえだ。
 現実の日本がそう動いていても、自分の実生活とは遠いところでなら、あるべき姿を模索できる。それが、インターネット上でこそ成立できる市民参加型ジャーナリズムの存在意義だと思っている。

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