2006年06月27日

06_26〔市民記者は「平和の時の平和論」に参加してはならぬ〕


 言論人に多くのファンを持った山本夏彦氏は、「平和の時に平和を語ることは、戦争のときに戦争を賛美するのと同じくらい楽なこと」だと指摘していた。
 夏彦氏は、与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」は反戦歌ではないと書いてもいる。
 弟よ。あなたは商家の生まれであり、武士(軍人)ではないのですから、生きて帰ってきなさい。というだけのこと。軍人が戦争で死ぬことの是非は勿論、戦争を否定も肯定もしていない。夏彦氏は、自分は安全なところに隠れていて、自らの主義主張のために他人の作品を捻じ曲げて利用する。反戦歌にしたてあげることの卑怯さに我慢がならなかったのだろう。
 平和のために祈ることしかできない人は祈ればいい。だが、平和のために行動できる権力を持った人たちが、その優柔不断さのために責任をまっとうせず、祈りをささげる場合もある。反戦を主張する人は、自分の存在をかけて堂々と自分の言葉で語ればいいと、夏彦氏は言いたかったのだろう。

posted by sponta at 12:08| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

06_25〔市民記者は、巨悪から取り組むことはできない〕


 ロッキード事件などを通じて、東京地検の凄腕検事だった堀田力氏は、「まず、巨悪から手をつける」と述懐していたのを覚えている。
 世の中に不正や腐敗は数知れずあるから、何をあつかってもいいのかもしれない。だが、東京地検というパブリックな立場では、易きところから手をつけるのでは、悪事をはたらいている側からいえば不公平になる。そこで、より大きな不正や腐敗から手をつけることによって、公平さを保とうということだ。
 一方、市民記者は生活者でしかないから、世の中の巨悪から手をつけるなどということは不可能。だから、自分の身近な出来事で、自分の手に追える範囲の内容を扱うことしかできないくても、仕方のないこと。
 逆に言えば、自分の専門外のことは扱わない勇気を持つことが大事だ。イノセントなどといえば体裁はつくのかもしれぬが、自分の専門外に首をつっこみ、取材対象の意見を鵜呑みにし、結果として読者を惑わしてしまう可能性もある。
 もっとも、市民記者がイノセントで読者を惑わしてしまう場合は仕方がない。だが、市民記者媒体がイノセントという訳にはいかぬ。だから、誤った時点で、訂正や謝罪を行うのが適切な処置だし、そういうことを通じて、市民記者媒体の信頼性・誠実性が築かれていくに違いない。

posted by sponta at 12:06| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

06_24〔市民記者は、私怨を公憤に高める〕


 私怨を公憤に高めるとは、玉井義臣氏(あしなが育英会会長)が大切にしていた言葉だ。
 私と公。
 PrivateとPublic.
 プライベートが個人ブログなら、パブリックは市民参加型ジャーナリズムだと思う。
 市民参加型ジャーナリズムで個人的なことを扱うことは問題がないが、その扱いについては、市民記者と市民メディアの両方の「公憤に高める」作業が不可欠であると思われる。

posted by sponta at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。