2006年05月06日

メディアリテラシーとは、情報の受け手が記事の真偽を測ることではない。

日本とアメリカの新聞の違いを述べてきた。だが、私は日本の新聞たちを批判するつもりはもうとうない。個人も組織もステークホルダーの論理に従わざるをえないのは道理。だから、それを批判しても、個や組織を辛くさせるだけであって、何の解決にもならないというのが私の考え。

新聞を疑う必要もない。信頼する必要もない。ましてや糾弾する必要などもうとうない。

私が指摘したいのは、そういうことを踏まえて新聞を読み解けばいいということ。間違っても、信頼するなどといって新聞と心中する必要はないし、信頼できないといって新聞人たちを苦しめても意味はないということなのだ。




「本音とたてまえ」という俗諺が聞かれなくなった昨今、市民たちはメディアの都合を意識しなくなっていると感じている。それが一番やばいことだ。
メディアの情報を受けるときに、かならずメディアの都合を勘案しなければならない。それは、マスメディアだけではない。2ちゃんねるは2ちゃんねるの都合があり、文体・用語・文脈がある。ブログにはブログ、コメント欄にはコメント欄、それぞれの都合がある。それは個人ブログ、商人ブログ、企業ブログ、匿名ブログなどによって、それぞれ違っているのは当たり前のことだ。
既存のメディアと違って、それらの住人になるために何らの制限がないから混乱が起きるだけのこと。
現在の混乱状況になんらかの制限をくわえることによって事態を収拾しようとするのは、現実的な対応だが、インターネットの未来を見据えるならば、制限することではなく分類・整理することによって、事態を好転させたいというのが私の行動原理である。



メディアリテラシーは、メディアの都合を情報の受け手に公開することによって確立できる。だが、メディアの都合を語る勇気を、メジャー紙たちは持っていない。
そのことができないメディアたちが、信頼性などという言葉でごまかしている。一般の情報の受け手が取材行為ができるはずもなく、信頼性など確かめることなどできないのだ。


スポーツ報知の巨人軍のヨイショ記事に怒る人はいない。それは、聖教新聞と赤旗が多数の読者を獲得しつづけているのと同じ理由だ。
問題は、中立を語っている新聞が紙面の大部分を巨人軍の記事が埋めることだと思う。
心理学では、好きな人に尽くすのではなく、尽くした人を好きになるという結論がでているという。報道と人気の関係も同じだろう。


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2006年05月05日

「美味しん坊」と「市民ケーン」:日本とアメリカの新聞社の違い

日本のマスメディアの誕生の経緯は、言論の希釈システムを権力の側が必要としたこと。と書いた。
つまり、恣意的な勢力の言論に対抗するためには、権力の恣意的な言論で対抗するのではなく、母集団を大きくすることによって、自分にとって都合の悪い言論を希釈するために、メディアをマス(巨大)化することが必要だったのだ。
明治政府は近代的国家の建設を目論んでいたが、その実は薩長による独裁にすぎなかった。だから、土佐出身者たちによる自由民権運動が起きたときに、明確な反論ができなかった。よって、言論には言論で対処するのではなく、言論を希釈するほうこうで対抗策を練る。
社会的な大きな事件が起きると、同じタイミングで政府が小さな発表をする。大きな事件に隠れて小さな発表は世間から見逃される。マスメディアがどの程度意図的にそのようなことをしているのか分からない。だが、それを情報操作だと指摘されることがあるから、いまだにそういうことは行われてきているのかもしれない。



分かりやすいたとえ話になるのかどうかは分からないが、架空のふたつの新聞社を考えてもらいたい。どちらもそれぞれの国民に新聞社のかたちとして違和感なく受け取られたのだから、事実性はともかくも真実性はあると思える。そのふたつの新聞社とは、日本の東西新聞社。アメリカはインクアイラー社。
前者は、人気漫画「美味しん坊」の舞台。後者は、オーソン・ウェルズが、新聞王ウィリアム・ハーストをモチーフにし映画化したという映画史上不朽の名作「市民ケーン」で、主人公のケーン氏が活躍した新聞社だ。

ふたつを対照すると次のよう…。
日本の新聞社には社主というものがいる。この存在の不思議なところは、新聞社の経営のトップなのに言論活動を一切しないことだ。その生活は貴族のようであり、美食を操る。物語に登場する大原社主は鷹揚な人物として描かれているがその心の内では、言論メディアにトップにいながら、なんら言論活動をしないことにある種の引け目を持っているので、グルメという部分で言論活動を試みる。
もし大原社主が本気で言論活動をしていたなら、社主自らグルメ記事に関わることなど新聞社の日和見・退廃と感じられ、山岡氏にすべてを任せていたはずだ。
社主とは新聞社のトップである。彼の一声で、一般の記者は勿論、取締役を兼ねるような編集委員でも簡単に飛ばされてしまう。漫画「美味しん坊」は、あまりに日本的な歪ともいえる新聞社の人間関係を前提に話がすすめられていく。この漫画がヒットしたことは、この設定が日本人たちにとって奇異に見えないことを証明している。したがって、「美味しん坊」は日本のマスコミとは乖離しているという新聞人たちの意見も聞いたことがない。
ま、「サザエさん」の海山商事とて、存在しないから妄言と切り捨てることもできるが、日本人の共同幻想の一つではある。

一方のインクワイラー社。
ビッグコンツェルンを相続したケーンは、経営権を取得した数ある会社の中で新聞社に注目する。そして、新聞社の社長として、言論活動を開始する。ケーンは新聞紙上で言論活動をすることによって部数を伸ばしていく。そして、それは政治家としての彼を目覚めさせ、選挙にも立候補する…。

大原社主の庇護のもとで言論活動をするのが、日本のメジャー紙のジャーナリスト。
市民ケーンのように、自らの新聞社をつくり自らの存在を賭けて言論を主張するのがアメリカのジャーナリストである。




映画界の巨匠オーソン・ウェルズは、ケーンに市民という冠をつけた。
もし、「美味しん坊」で、市民という冠をつけるに値する人がいるとすれば、それは海原雄山しかいない。

私は…。と言えば、雄山に反発しつつも、打ち負かしきれない山岡青年の立場だろうか…。
市民とは、ケーン氏や雄山のように、揺ぎ無いものだと思っている。


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2006年05月03日

新聞はなくならない。…何故なら、言論の希釈システムは必要だから。

『新聞がなくなる日』の歌川氏は日本の新聞に主張や顔がないのは、明治以来、最大公約数のために記事を書いてきた「小新聞(こしんぶん)」をビジネスモデルとしているからだと語る。

たしかに歴史に従えば、そういうことになる。だが、それは表面の問題にすぎないのではないかと、私には思えてくる。
そして、そういう自分たちの業界の過去の歴史に対する認識が、自分たちを破滅に陥らしている。明治以来の新聞たちは、最大公約数のために記事を書いてきたのではない。もし、そうだとするならば、日本固有の問題と海外メディアから指摘されている記者クラブの問題など、とっくに払拭できているはずだ。

まぁ、高校の歴史参考書レベルの私の見解だから、気にすることもないのかもしれぬが、私が考えるのは次のよう…。



日本の新聞人たちに最初に起きた惨禍は、政府による発禁処分である。
西南戦争の後、武力では薩長閥と対抗できないと悟った勢力たちが言論で対抗しようとした自由民権運動。そして、その言論のツールとして新聞を利用した。
当時の明治新政府とて、文明開化をすすめるうえで新聞の存在は否定できない。
そこで、政府たる薩長閥たちは対抗策を練り、経営難に陥ったノンポリ新聞(小新聞)を買収し、自分たちが表に出ないかたちで、言論活動を行った。そこが、現代のメジャー紙たちのルーツである。彼らは政府の傀儡であったが、傀儡であることを市民に感ずかれては元も子もない。だから、表層的な思想をまとうことになる。そして、新聞社経営の本質をさておいて、そういうものに浮かれる新聞人たちも少なからずいた。



民間にいると、電通は役所の仕事の受注高が多いなぁ…。と、驚く。だが、官にいれば、官でできないことをするために、官が電通を作ったのだから、当然。ということになる。
三菱財閥にしてもそうだ。官有物の払い下げで三菱が幅をきかせるなどすごいと思うが、三菱は、土佐藩の藩営事業を民営化しただけのこと。驚くほどもない。
そのように見渡せば、民の形をしているが、その実、官なるものは、この日本のここかしこになるのだと思う。

民営化など、平成の世の中に限ったことではない。



客観・中立・報道などと言っているが、そもそも出自からして「物を言う」ことを目的にして作られたものではなかった。「物を言わぬ」ことで、物を言う新聞たちの存在感を希釈することが、彼らの存在価値だったのだ。
だから、客観・中立などという人間には到達できない理想を強調する。
(それが辛い論理だということは、ニュースウィキの中立報道の定義を読んでもらえれば、感じてもらえるだろう。)

そういう自己肯定感は、いまの新聞人たちにも存続していることは、いまだに記者クラブ制度を存続させて自らの安寧の立場を守っていることで証明されてもいる。



日本とアメリカでは、メジャーな新聞の成立経緯が異なっている。だから、アメリカと日本ではジャーナリズムのかたちが違う。日本のメジャー紙は、市民の意見のガス抜きシステムでしかないが、アメリカでは市民の意見をインテグレートさせるべく設計されている。
だから、アメリカの新聞はブログと親和力が高く、日本の新聞はブログと乖離しているのだ。

まちがっても、国民性の結果ではない。
「本音と建前」という俗諺が巷にあった頃は、多くの人がわかっていて語らなかった。
いまは、その俗諺はあまり聞かれることはない。だから、そのことを知っている人も少なくなった。そして、建前を本音として開き直る。そういう輩たちが跋扈している。



ディベートとは、議論の勝利のためには嘘をついてもいいと前提の上になりたつ。
嘘というと、そんなことはありえないと思うかもしれぬが、その個にとっての重要度の勘案を、議論での勝利のために偽るということだと説明すれば、なかなか否定できないのではないか。
アメリカの新聞は、ディベートの一翼を担うことができるかもしれぬが、日本の新聞はそれができぬ。それは、自らのDNAに、特定の言論を希釈する機能が植えつけられているからである。

日本の新聞の社説も、その論理から逃れることができず、一見意見のように見えるものも、実は世の中の諸意見を統合した結果にすぎぬ場合が多い。
そのことが明らかなのは、日本の新聞たちが社説を何かのムーブメントに結び付けようとする努力をしないばかりか、自らの社説に誤りがあった場合でも、謝罪することがほとんどないからである。



ということで、「信頼感」を新聞に求めてもねぇ…。
って、湯川さんに言いたかったんだけど。



posted by sponta at 14:21| Comment(2) | TrackBack(0) | メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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