2006年06月02日

挨拶は脊髄反射であってはならぬ。

フジテレビは、テレビ寺子屋は吉岡たすく氏の講義がなつかしいので、早朝派の私はなんとなく見てしまう。だが、最近は?と思う講師の言説に多くぶちあたる。今朝もそのひとつ…。



子どもに挨拶の習慣をつけようと、泉アキ氏がテレビ寺子屋で説いていた。
誰に対しても、条件反射のように挨拶する習慣をつけることが重要だと説いている。
ありがとう、おはようができる子どもが素晴らしいと説いている。
あいさつをすることで、誰からも愛されるこどもにしたい。だから、挨拶が重要だ。
ありがとうを言うと、得なんだから、しよう。とまで言う。
ありがとうの言えない子は、人から愛されない。何を言われても「アー、エー…」などという子はダメだ。


番組では、彼女の言説にうなづく観衆の映像が多く挿入されていた。
きっと、あの会場で泉氏が指摘したことが、良好なコミュニケーションのためのアプローチのひとつであり、そのアプローチには危険性もはらんでいることに気がついている人はほとんどいなかったのではないだろうか。もし気づいている人がいたとしても、有名人のオフ会で私がとったのと同じような行動をとったに違いない。



私は無名な演劇関係者である。演劇の手法でいえば、形から入るか、心から入るかというふたつがある。

泉氏が提案したのは、形から入るアプローチ。明るく元気に声(挨拶)をかければ、自分の心も相手の心も明るくなる。ということ。
もうひとつあるのは、心から入るアプローチ。まず自分の心を明るく保つ。そして、その心で相手に接すれば相手の気持ちも明るくなる。

ふたつのアプローチが到達すべき目標は、心をともなった形である。
そして、重要なことは、心だけあって形がないことは誤解を生むけれども許される。「あの人はああいう人なのよ」と、時がたつにつれて個人の行動パターンとして理解されていく。だが、心がない形だけのものは、時を経て、「あの人って…」と次第に批判にさらされていくことだ。


コミュニケーションの実際を考えてみれば、よく分かる。その場にそぐわないtoo muchな明るい挨拶は、相手の反発をかう。もし、深刻な話題について真剣に話しているときに、そのようにして入ってくる人がいたら、その挨拶から読み取れるメッセージは、「私の前では暗い話はしないで頂戴。私は、そんな辛気臭いことは嫌いよ」ということ。
心から入るアプローチならば、相手の表情をとっさに読み取り、簡素な挨拶にする。そして、話題にすこしづつ加わりながら、相手に心を寄せ、自分のできる範囲で話題を明るく、解決の方向に仕向けていく。そういうコミュニケーションを紡ぎ出すことができる。



私は、地域でたむろしている高校生か社会人なりたての男の子たちに会う。ひきこもっていないし、繁華街に出奔しているのでもないから、格好はとんがっていても、愛すべき奴らだ。だが、だいたいがろくな挨拶もできない。
だが、私はそういう個を批判したいとは思わない。逆に、自分の気持ちに素直な個であったり、相手に対してやさしい個だと思う。だから私も、相手の暗さを圧倒するような大きな明るい挨拶は、相手を問答無用と一刀両断にするようなものだと感じて、極めて曖昧な挨拶をする。

その場その場にあった挨拶をすべきだし、何よりも相手の心に、自分の心を寄せる。そのことが重要だと感じている。
だから、挨拶できぬこともある。挨拶することで相手にコミュニケーションの糸口があると錯覚させることは、いらぬ摩擦を呼ぶことでもあるからだ。
良好なコミュニケーションが構築できないのならば、ディスコミュニケーション(コミュニケーションしないこと)のほうがまし。…と、腹を括るしかないのだ。

追記:
私は、彼女のように純粋律を訴えて、会場の共感を呼ぶことがデマゴーグ(煽動)であると思う。教養ある知性のすることではない。

posted by sponta at 06:08| Comment(0) | TrackBack(1) | 子育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月29日

こどもを人として扱うことの稀有さ。

彼女が言葉もしゃべれぬ頃から、私は、娘を人として付き合ってきた。こども扱いはしない。だから、娘はこどもこどもしないで、大人と接することができる。バンド活動やステージ活動も好影響を思しているかもしれない。
私は、こどもをこども扱いするのが嫌いだ。
よく子ども向けのイベントなどで、「みなさん、こんにちわ。あれっ、ちょっと元気がないなぁ…。もう一度大きな声で、みなさん、こんにちわ」ってのをよくやる。予定調和としても嫌だし、そのコメントの裏にあるこどもたちに君臨しているかのような気持ちが我慢ならない。
学校の先生たちにも、こどもたちを君臨する気持ちを感じることが多々ある。そういうのが許せない。

車で、娘に私の気持ちを説明した。
大人もこどもも同じ、魂はひとつだ。確かに計算を解かせればできないし、話すことも上手じゃない。でも、スピリチュアリスト江原さんの言うように、魂には、それぞれのオーラがあり、守護霊さんがいて、前世がある。

この間の朝、交通安全の黄色い旗ふりをして、小学生たちの登校風景につきあった。
黄色い旗を持った私に、「おはようございます」と声をかけてくれる子もいるし、黙って通り過ぎる子もいる。親の配慮が感じられる身なりの子もいるし、洗濯もされていない服を着る子、ぼさぼさの髪の子、よれって歩いている子。さまざまな子がいる。だが、すべての子が、小学校への道を歩いていく。誰も立ち止まらない。引き返さない。そのことに私は感動し、そういう子どもたちの生きる意思を尊いものと感じた。

学校で事件が起き、仮病をつかってずる休みをした私。伸びきった靴下のゴムが嫌でしょうがなかった小学生だった私。友達のハイソックスに憧れた私。我が家は貧乏だと刷り込まれていた私には、何も言うことができなかった。だが、借家住まいとはいえ、両親がそろっている家族だ。貧乏といってもたいしたことはない。

形は違うかもしれぬが、いま目の前を歩いていく小学生たちは皆、自分の現実と戦っている。すべてが尊敬できる魂たちである。


posted by sponta at 10:25| Comment(2) | TrackBack(251) | 子育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月24日

howではなくwhyを教える教育

ジャック・ニクラウスが日経新聞のわたしの履歴書に書いている。
コーチがなすべきは、どう打つかではなく、いいショットを打つ仕組みを教えることだと言っている。

勉強をしろ。挨拶をしろ。それらはすべて、Howである。
だから、こどもたちに説得力がなく、強制するだけで反発を呼ぶ。

大人がちゃんとWhyを教えるならば、納得されると思う。そして、そこで勉強をするか、しないかは、本人次第だ。
ただ、Whyを教えたとき、こどもたちにその社会の仕組みを誇れるのか。そんな歪んだ仕組みを放置している自分たちを誇れるのか。

戦争放棄や人権の尊重、法の下の平等など、学校で教わっていることがどれほど実現しているのだろうか。
そういう問題があっても、処世のwhyを教える。それが大人の務めだと思うのだが…。

posted by sponta at 08:02| Comment(0) | TrackBack(93) | 子育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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