2006年05月15日

思考停止の日本を憂う戸塚校長。

戸塚ヨットスクールの戸塚氏がいくつかのインタビューに応えている。

朝の日本テレビ_060501
テリー伊藤は、卒業生と一緒にスタジオに来てくださいと戸塚氏に問いかけた。
日本という社会は体罰に対して思考停止していることに、勝谷誠彦は同意した。
メインキャスターのお笑い芸人・極楽とんぼは、固定観念で戸塚氏を論難しようとしたが、微妙に流れを変えるスタジオの雰囲気に方針を変更したようだ。

戸塚校長は、
体罰とは、受ける側の目的になされるものであり、
調教とは、する側の利益を目的になされるものだと、断じた。
そして、体罰においては質と量が重要だと付け加えた。

ヤンキー先生の義家氏は、「叱ることができる人だけが、褒める権利を持つ」という箴言を残すものの、妙なことを言う。自分のこどもには体罰をするが、人の子にはしない。と。相撲部屋では竹刀での体罰は許されるが、それ以外はだめだ。と。彼は、血縁主義なのか…。

ヤンキー先生を、戸塚氏は、「あなたは合理主義ですね」と評する。
人間の根本に理性があるという西洋の考えがある。そして、戦後は理性一辺倒の日本になってしまったが、理性という考え方が正しいかどうか、誰も証明していない。と。
そして、戦争前に戦争反対を唱える人を非国民として社会全体が袋叩きにしたようなものと、同じものを自分は社会から受けていると怒りをあらわにする。

勝谷氏は事件が起きた20年前から日本人は思考停止に陥っている。と断ずる。その原因は明らかだ。
もし、体罰の問題を真剣に考え始めたら、自分も凶悪犯と同じ思想の持ち主になってしまうからだ。だから、大した考察もせずに、「体罰反対」と自己を放棄した発言で、自らの保身をたくらむ。たしかに市井の人々はそれでいい。だが、公で発言できる立場の人は、そういうことをしてはならないし、卑怯であると私は考える。
ドブ声の芸人も悪い奴じゃないんだろうけど、危ない橋を渡らされているものだ。

戸塚氏の出所を前に、報道陣に彼を擁護する会の新聞が配布された。その会の会長は石原慎太郎氏だという。
石原氏の思想は、戸塚氏と方向を同じにしている。東京都民が石原氏のすべてを支持しているわけではないが、全否定されてもいない。日本がそういう世の中だということをマスコミはもっと分かっていていい…。



戸塚氏は言う。
人間は快なるものを求め、不快なるものを避ける。だが、幼い時期に不快なるものを避け続けることを許されてきた個は、不快なるものに耐えられない。自分から不快なるものを自らに負荷できるものはいいが、それができない個には、不快さを負荷してあげることが必要だ。と。

バンキシャ060430の法曹関係を勤め上げたコメンテーターは体罰は小学生ぐらいまでは許されるが、それ以上は…。とコメントしていた。
勿論、このコメントは、戸塚氏への批判の矢のひとつとして発せられたものだが、図らずも、戸塚氏の思想の前提を追認するものだ。

不幸にも、小学生ぐらいまでに体罰をされず、また、自分から不快なるものを自らに負荷できない個をどうしたらよいのか、そこに戸塚ヨットスクールというひとつの選択肢があったのだ。
勿論、その個に格闘家としての才能があれば、藤島部屋に行くことができたし、馬の鼻っ面にニンジンという具合で、不快なるものを自分に負荷できた個もいただろう。だが、そういうものに恵まれなかった個たちを社会から見捨ててはならぬ。それが戸塚氏の立場に違いない。

社会が身柄を拘束する。死刑という究極の体罰を下すまで、われわれは見逃していてよいのだろうか。たった一人の人間を更正させるために、無関係の被害者の命が奪われてもいいのだろうか。
私は、宅間死刑囚の卑劣さは、多数の小学生を刺殺したことではなく、自分が憎んでやまない彼の父親を殺さなかったこと。だと思っている。
小学校のまでの間にきちんと不快感に対する耐性を受け付けてくれなかったから彼は悩んだし、犯行もおかしたのだ。宅間氏はそのことが分かっていて、それでも父親を殺すことができずに、小学校に飛び込んだのだ。



私も概ね戸塚氏の意見には賛成だ。
ただ、確かに体罰は反則かもしれないが、プロレスの反則と同じで、3回までは許される。そんな感じだ。www
そして、体罰する側の心理には、さまざまな邪念が沸き起こってくる。そいつを否定せずに、辛抱強く対峙することが必要だ。そのための修養も必要だろう。
勿論、それが受ける側の進歩に繋がるならという視点は不可欠だ。

だが、もうひとつの視点として、ヨットスクールの事件・事故の際に、指導者や訓練生の集団心理の中にさまざまな邪念がなかったとは思えないし、そのことを反省すべきだと思う。ただ、そのことを自省してしまうと、そこをまたマスコミが突っつくから、それもできぬ。ということなのだろう。そういう管理責任としては、極めて妥当な年月収容されていたのかもしれない。

変なたとえ話だが、ラーメン屋の本店・店主の味は上手い。だが、チェーン店の味は不味い。そんなことがあったのかもしれぬ。そして、事件は起きてしまったのだが、店主はチェーン店の店主をかばった。
戸塚氏もそのようにして、自分の責任と認めたのだろう。



戸塚氏は、合理性・理性に流れる日本の現状を批判してやまない。
私は、知性には悟性が求められる。知性尊重で悟性が語られぬ世の中を憂いている。
※悟性の解釈はさまざまだが、私の理解は「世の中の存在そのものをそのものとして受け入れること」としたい。
「自分が知らないものを存在しないものはない」と断じるのが合理主義だ。コロンブスはアメリカを発見したというが、コロンブスが発見する前からアメリカ大陸は存在していた。そういう合理主義の傲慢さや欠点を論じない人々が世の中に多いことが不思議でならない。

サイエンス(近代的自我)とは、中世的な宗教的世界観への対立概念として生まれてきた。そして、ガリレオ・ガリレイの裁判から数百年経った今でも、ダーウィンの進化論を巡ってその是非が裁判されているのが西欧社会だ。
そういうことを捨象して、サイエンスが新しい乗り物かのようにはしゃいでいる日本人たちが、私には滑稽に思えてならない。

posted by sponta at 09:43| Comment(0) | TrackBack(1069) | 時代の空気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月13日

ジーコの指摘は、日本の陪審員制度にも当てはまる。

ジーコは、ドイツのルント誌のインタビューに、「日本人には大きな問題点がある。選手は自分自身を信じていない。対決することに対して責任を持たない」と日本人を指摘した。そして、「それを克服すれば日本はボールを足で操る巨人になれる。ヨーロッパにはない運動量が日本にはあるんだ」と自信を持ってプレーするよう注文をつけた。

選手を日本人に、運動量を勤勉さに変えれば、「個にとっての」日本の陪審員制度の問題が見えてくると思う。
この、「個にとっての」というのが重要であり、そういう陪審員という責任を負わされた個の内的な部分を導入機関たちは考慮しているのか、はなはだ疑問である。



個にとっては言論の自由でいいが、社会にとっては言論の多様性の許容である。
JANJANにしても、WIKInews にしても、市民記者に公平・中立を求めるなどという土台無理な論理がまかり通っているようだが、それではノッペラボウの個しかいない世の中になる。ライブドアPJにしても独立性などというが、独立を煎じ詰めれば集団の構成員でいることはできなくなる。所詮、実現不可能なスローガンに過ぎぬのだ。


ならば、主観的である自分を客観的に動かしていく個があればいいのだ。
そして、自らを狂気と悟ることが最大の客観性でもある。

狂気は、理性の衣を着せて歩かせねばならぬ。 隆巴(無名塾・演出家)

ジーコのチームの柱である中田英寿は、「選手ひとりひとりが自分がどういうプレイがしたいか、周囲に伝えることが重要だと」説いている。相手に自分を合わせるのではなく、自分を伝えることによって、他者との接点を模索するのだ。そうして出来あがったものは、折り合いや折衷の産物ではなく、それぞれの個を加算したものではなく、乗算したものだ。

それぞれの個性の特徴が際立ち、それが集団の中で機能すること。
お互いが自分の個性を出さずに、ノッペラボウになることではない。
サッカーでの勝利も、日本という社会の向上も、まったく同じセオリーで構築できると考えている。

追記:
そう思っていたら、イギリスの名門タイムス誌の記者の歪んだ日本観と戦っているブロガーがいると知った。
英語力強化のために読んでみるのもおもしろいかもしれない。

posted by sponta at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時代の空気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月12日

ホリエモンが保釈された。

いまさらながら恥ずかしいホリエモンを賛美する私。との言葉で「幻想の市民参加型ジャーナリズム」というブログを始めている。昨日の閲覧数は30に満たない。私の努力不足かもしれぬとJANJANの掲示板に書き込みをしてみた。

「幻想の市民参加型ジャーナリズム」は、出版を想定した原稿である。だが、悲しいかな、現時点で出版の計画は実現していない。そこで、とりあえずブログでリリースすることにした。
この原稿は、濫觴(らんしょう:長江も最初はちいさな泉の流れ)の一滴だと、私は思っている。既存の市民参加型ジャーナリズムの運営者たちは、けっして気づこうとはしないかもしれぬが、私が経験したことは、いつしか大きな意味を持つことになる。私は、そのように自分を勇気づけて350枚を一気に書き上げた。

日本の市民参加型ジャーナリズムは、自らの失敗を認める時期に来ている。そして、その失敗から学ばなければならぬ。

それが今朝、私がJANJANの掲示板に書いたことだ。
市民参加型ジャーナリズムがめざすべきなのは、相互補完的なメディアではない。新しいメディアだ。だが、それを創造しようにも、まずイメージができていない。
私の経験をそれを導き出すものである。



さて、その原稿は、「いまさらながら恥ずかしいホリエモンを賛美する私」というキャッチコピイで始まる。
一昨日の夜、保釈された彼。その夜はコンピニの巻き寿司で缶ビールを2本飲んだとか。
今回のことで分かったことは、彼は空洞だったということだ。宮内取締役は彼を「人寄せパンダ」と公言して憚らず、乙部女史の抵抗をかったが、彼は御みこしに担がれた神輿。巨大化した空洞ということでは、ねぶた祭りのねぶただったのかもしれぬ。
彼は、昨年の株主総会で、株主のことを考えてやっているのに理解されぬと泣いてみせた。その涙が演技か本物かどうかは分からぬが、彼が理想を掲げていたとしても、それは他者を喜ばせるためにやっているのであって、心底自分のためにやっていたのかと考えると、そうでないのではないかと思えてくる。だからこそ、彼は容疑を一貫して否認したまま、数ヶ月を過ごすことができたのだと思っている。

私はライブドアPJに記事を拒絶された頃、何故、ホリエモンはPJに関心を持たなかったのか不思議でしょうがなかった。
衆議院選挙に出馬するなどという経済以外の社会的な活動もするのに、何故、自分のメディアに関心を持たぬのか。理解に苦しんだ。
だが、彼のモットーは明確な誰かのために何かをすることであって、見ず知らずの誰かのために何かをすることではなかったのではないか。と、思えてくる。
痩せてしまった彼をオーソン・ウェルズ演じる市民ケーンと比べることも虚しいが、彼は市民ケーンではなかったのだ。

アパッチけんこと、中本賢氏は、「ホリエモンは坊さんみたいだ」と言ったが、私もその意見に同意する。
ホリエモンは、コンテンツではない。メディアなんだ。
もっと分かりやすく言うと、宝石ではない。宝石箱だ。

ホリエモン、大丈夫だよ。たとえ宝石でなくても、彦麻呂ならほめてくれるさ。

posted by sponta at 09:57| Comment(0) | TrackBack(739) | 時代の空気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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