2004年11月14日

ダウン症の青年がステージに立つんだとさ。

さて、ダウン症の青年とバンドをやっているが、みんなで練習をしている曲を突然やりたくないといいだした。
そのことを叱った。
すると、児童館の職員を通じて、いろいろなことを言ってきた。
そこで、口が達者でなくても、字を書くなど努力して、自分でコミュニケーションをとるように言ったら、人ずてにコメントがあり、バンドから抜けていった。



そういえば、思い出した。イギリス人の少年と一緒に出かけたあと、帰り際になると、少年はきまってもじもじする。彼のお父さんとひそひそ話…。
私は、日本語で話せないことなのかな。と、思って後でお父さんに聞くと、私の家で遊びたいけど、そのことを自分で言えない。のだと言う。
この青年の場合と同じだ。



結局のところ、児童館の職員がエージェントになってしまって、それで生きていけるから、それに甘えてしまっているのだ。

たとえるなら、「千と千尋…」の中の、ユバンバの赤ちゃん状態である。

彼の言葉を寸借した職員がステージを整えるのだろう。
私は、この件につき、ニュートラルをつらぬく。

わたしがもし、ポジティブに彼のステージに関与するならば、彼と一緒にまず取り組むのは、「平仮名を勉強すること」。そのことができたら、歌の前にMCをすること。司会をすること。みんなに話すことである。



芸術とは所詮、自己韜晦の所作である。
でも、それはすべてを尽くしたあとの諦観として許されるものだ。
(難しくてごめんなさい。でも、私のブログを読んでいる人にはわかってもらえるのだとせ思うのですが…)



人とコミュニケーションをとる。それは人間として最低限のつとめである。

めがねをしない人と同じこと。

人が人であること。

そのことにおいて、私は彼に強いることはできない。



私は、そういうマイナスのエネルギーをわたしの周りから払拭するために、プラスのエネルギーでステージを満たそうと、計画をしている。

ステージでやる曲は、

1曲目:幼稚園児・保育園児をステージにのせることを目的にした「さんぽ」
2曲目:引っ込み思案だけど、でもステージに立ちたい小学生たちをステージにのせることを目的にした「BELIEVE」。この曲は、小学校で教えている曲だから、誰でも歌える。
3曲目は、歌好きの在日外国人たちに出演交渉の予定。
4曲目は、娘がやりたいという「AMBITIOUS JAPAN」



やりたい人がやる。
集まりたい人がくる。

それでは、児童館のイベントではないと思う。

やりたいけど、やる機会のない人。やる勇気の足りない人たちの背中を押してあげる。
そういうことが、アミューズメント施設ではない児童館の役割だと思う。



情報を発信するということは、自らのエネルギーを拡散することである。
拡散している過程で乱反射し、自分に思わぬ状態で跳ね返ってくることもある。
だが、それを恐れて躊躇してはいけない。

基本的に、反応が予想される対象に向かって情報を発することは、実は情報の発信ではない。
単に、共有情報を確認しているだけだ。
共有情報を確認するだけのコミュニティーが世の中には多すぎる。

勿論、コミュニティーの形成時や、そのコミュニティーに新たに加わるときは、共有情報を確認するという行為が行われる。
とはいえ、コミュニティーが外に向かって開かれているなら、コミュニティーの存在は意義がある。



児童館で活動をしている大人たちを見ると、閉じられたコミュニティーをつくっている場合が多いと、感じられる。

かの山本七平氏は、「なかよしをつくるということは、仲間はずれをつくることでもある」と、日本人とユダヤ人という本の中で書いていた気がする。

武者小路実篤のように、ひとつの理想として、「仲良きことは美しき哉」と言うのはよいけれど、実際にそれが集団の最大のプライオリティーとして行動してしまうと、事態は最悪なのだ。

長崎のカッターナイフ少女の事件なども、そういう無意識に刷り込まれた「仲良きことは美しき哉」意識の暴発である。


posted by sponta at 07:45| Comment(0) | TrackBack(11) | 介護・福祉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月06日

障害者のあるべき気持ちとは…。

障害者の気持ちはどうなんだろう。私にはわからなくなった。

昨日、駅からではなく、デパートの前にあるバス停からバスに乗ろうとしていた。
すると、車椅子の女性とそのお母さん。女性は40代、母親は60代。そんな感じ。

私は、仕事帰りで腰が痛んでいたから、蒲田駅から、電車を一本待って座ってきたほど。とはいえ、同じバス停から車椅子の女性が乗るのなら、車椅子を持ってあげるしかない。

さて、問題は、この母子の行動。
車椅子の女性は、降り口のほうに行き、母親が車椅子を乗せてくださいと言うのだが、母親は恥ずかしいのか、声が小さく運転手に伝わらない。ようやく、運転手が車椅子を見つけて、ことの次第を理解した。運転手は、社内無線で、後続の運転手に連絡。というのも、このバスは旧来のバス。フロアが高い。運転手は、次のバスが障害者向けのローフロアのものだから、それを待ってくれないか? と言う。
車椅子の女性は、どうしてもこれに乗りたいと譲らない。そこで運転手は、女性を乗せることにした。勿論、運転手は迷惑だとか、困ったとか言うのは微塵もない。乗客たちも誰も早く発車させろと、文句を言う人もいない。

でも、時間は過ぎていく。バスは遅れるものだから仕方がないのかもしれないが、バス
遅らせないようにするのは、運転手と利用者のつとめでもあると思う。

私は腰が痛いから、電車を一本待って、大井町線に乗った。このバス路線も10分以内に一本は走っているから、待てばいいのに…。と、思った。
仕方がない。頑固な女性に何を言っても仕方がない。

私は、誰か手伝ってくださいと車内に声をかけた。すると、乗客の中の男の人が手を貸してくれた。さあ、持ち上げましょう。と、声をかけると、運転手さんにやってもらってください。と、女性は言う。
私は、心の中でつぶやく。「いいじゃないか。そんなことどうでも。早くバスを発車させましょうよ」そして、「運転手ひとりで車椅子を持ち上げられるわけでもあるまいし…」。

とはいえ、そんなことを言えるわけもなく、運転手と前後を持って、女性を車内に持ち込んだ。気合が入ると腰痛など消えるもの。不思議である。

運転手が女性に降りるところを聞くと、私と同じバス停だった。

普通であれば、そうなんですか…。などと、世間話などをするのだが、相手は車椅子を上げてもらったことに対する引け目があるから、辛かろうと思って世間話もしなかった。
世間話というのは関係が対等だから成立するのでは…。

途中、車内アナウンスで、母娘にどこで降りるんでしたっけっと、運転手が確認をする。
母子はちいさな声でしか喋らないので、大きな声で私が答える。

私は気になった。娘の方は降り口から乗ったし、母親も一緒に乗り込んだ。だから、運賃を払っていない。母親は乗り込んだときに車内を歩いていき、運転手に料金を払ったりしたのだろうか。女性は、席が空いたら座りなさいと母親に示唆しただけで、運賃のことは、何も話さない。

車椅子の女性は、昨日や今日、障害者になったという感じではない。きっと、いままでいろいろな嫌なことがあったのかもしれない。でも、だからと言って、人に嫌な思いをさせてはいけないと思うし、感謝の気持ちを持つべきだと思うし、どんなに裏切られても人を信じるべきだと思う。

目的地で、私はまず先に下り、自分のかばんを地面に置き、車内に誰か手伝ってくださいと声をかけた。寡黙な若者が手を出してくれた。それでも、彼女は運転手でないと嫌だという。
私には、その意図がわからない。30人は乗っているバスを必要以上に遅らせてまで、運転手に車椅子を持たせるその意味が…。
結果、手を差し伸べてくれた若者はやり場をなくした。そして、運転手と私は二人で車椅子を下ろした。

おろした後、運転手が、「たしか運賃が…」と言う。母親は、ぼんやりと恥ずかしそうな表情をし、お財布を出す。

私は、その様子を肩で見届けながら、その場を後にする。



私は思う。
障害は恥ずかしいことではない。
人の手を煩わすことも、同じ社会の一員としては当然のこと。もちろん、感謝の思いはあるべき。でも、それはお互いが挨拶をする程度のことだと思う。

障害者としての自分に自信があれば、それはできるのだと思う。



自分にふりかえって考えると、自分が有利な立場であろうと不利な立場であろうと、どんな場合であっても、いつも素直に人と接する。自分の意見の思いを発信する。

それがなかなかできないことなのだと思う。
傲慢になったり、卑屈になったり、恥ずかしくなったり、ひらき直ったり、コミュニケーションを閉じてしまったり…。

ひらき直ったのが女性。コミュニケーションを閉じたのが母親。
そうなんとなく思った。



あくまで、障害者対応はバス会社の社会責任であって、一般人の善意に頼るべきでないとでもいうのだろうか。
私は、見るからに気が強そうなこの女性の心にそういう感情がくすぶっていることを感じたから、極力事務的に手助けをしようとしたのだが…。



私が間違っているのだろうか。

私が「私は腰痛ですので、お手伝いができません」と、公言できなかった意気地なしだから、こう思ってしまうのだろうか。




posted by sponta at 07:16| Comment(3) | TrackBack(3951) | 介護・福祉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月31日

見えることのと分かることの素晴らしさ。

見えないものが見えることが知性であり・理性である。
啓蒙のことをenlightningということはそういうこと。見えないものを見えるようにすること。それが百科全書に始まる近代的知性の始まりだと思う。

とはいえ、凡庸な人たちは、見えないものが分かる感動を忘れている。もしくは、見えないものを分かろうとしない。見えると、分かると、行動せざるを得ない。それが面倒だ。

だから見えないことにしているのだ。



見えないことが分かる→知性・理性

見えないことしか分かろうとしない→ご都合主義・利己主義

見ようとしない・分かろうとしない→卑怯

見えても・分かろうとしない、動こうとしない→非常



どっちがいいか、よ〜く、考えてみよう。

A. 身体に障害を持つことと
B. 人の気持ちが分からないこと

A.物事を憶えたり、勉強ができること
B.人の気持ちが分かること

人の気持ちが分かり、人に伝えるにたる美しい・健全な気持ちを持っている。

勿論、喜怒哀楽は重要−−−。
すべての気持ちがあっていい。

でも、怒った後に反省し、あやまったり人間関係の修復に努める。
泣いた後には、少し経ってから、自分で立ち直る。
ひとりで喜んだことを、他人が疎ましかったり、うらやましがったりしていないか配慮する。
自分の悲しみの中に、陶酔が含まれていないか、自分を見つめなおす。

そういういろいろな所作を繰り返すのならば…。



公立の小学校。
教員たちはこどもたちがそれぞれができることを見つけ出し、伸ばそうという努力をしているのだろうか。

見つけ出したならば、そのために動かなければならない。見えないのは仕方のないことだが、知っていて動かないのは非情だ。だから、見つけようとしない。
そういう気がしてならない。



運動会の帰り道、ねむの木村を散策していた。
すると、老夫婦が「何で落ち葉ひとつ落ちていないほどきれいなんでしょう」。と語っていたので、カミサンは、「ねむの木のこどもたちがやっているのでしょう」と言った。
「そんな障害者に掃除なんてさせるわけはない。きっと、職員がやっているのだ…」と。
カミサンは、運動会を見た人たちなのに、何も分かっていないと呆れたという。

立てるものは箒を持ち、立てないものは雑巾を持つ。それぞれの能力にしたがって出来ることをする。それがねむの木学園の姿であり、障害者に限らない、世の中の姿である。

勿論、障害のある人と一緒にやるのは疲れる。普通の人の倍以上の時間をつきあってやらなければならない。でも、それぐらいのことは耐えてあげなければならない。

手を出すこと。手伝ってあげることが真の優しさではないことを分からない。

否、すでに自分が間違ってしまったことを認めたくない。
そういう頑固な精神の持ち主であるだけなのだ…。

駐車違反をとがめられたときに、そんなことみんなやっているよと反論したり、お店で店員さんがおつりを間違えたときに知らんぷりをする。そういう程度のことなのかもしれなぽ。



posted by sponta at 07:57| Comment(0) | TrackBack(3951) | 介護・福祉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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