2006年07月02日

07_06〔技術に強いられた未来なんていらない〕


 日経新聞の経済教室というコラムの「通信と放送。融合を探る」(2005.02.09)で、スタンフォード日本センター研究所の中村伊知哉氏は、「コンテンツに関する規律も、通信と放送という単純な区分けより、消費者保護、プライバシー保護などきめ細かい多元的な社会要請にこたえる仕組みが必要だ」と指摘している。中村氏は、日本型の法体系を構築すべきだと訴えている。
 私が考えている個人情報エージェントは、中村氏が考えている未来像と同じストーリーボードの上に載っているようだ。

 同じコラムの前日では、早稲田大学の亀山渉教授は次のように指摘している。
 現代の通信技術は、1830年代のモールスの電信機の発明。1870年代のベルによる電話の発明。そして、1890年代のマルコーニによる無線電信の発明によって始まった。
 そして、電線の終端間で情報をやり取りするのが通信の基本となり、電波により発信元から同心円上に情報を伝わるのを放送。つまり、一対多の情報通信形態が生まれた。
 それがいま、マルチメディア符号化技術によって、パソコンに乗っかる情報も、携帯電話に乗る情報も、テレビ画面に載る情報もほとんど同じ符号でつくられているので、情報コンテンツが、情報メディアの特性に限定されることはなくなった。それぞれのメディアがアナログでつながっいていたマルチメディアの時代の次に来た、マルチキャストの時代の真相だ。今後、マルチキャストの意味は、単に同時に発信されるということではなく、コンテンツがシームレスに各メディアで扱われることを意味していくに違いない。
 さて、そのようにコンテンツがメディア特性の括りから開放されたとき、コンテンツのありようはどう変わっていくのか。
 亀山教授は、あるべき方向性を明記していないが、こういうテーゼの書き方こそ、技術に導かれた未来ではなく、技術の独走を許さない未来。技術を利用する未来をつくるべき提案だと思える。そして、それはコミュニケーションのあり様の歴史を、電気通信技術の誕生前に戻すことに他ならないと、暗に示していると、私には感じられる。
 いまいる時代が現代であり、その前が近代である。近代は技術革新による時代の進化を絶対善とする時代だったと思うが、21世紀の現代が近代と違うものだとするならば、それは技術に流されない時代だと思う。
 祖父や父に学んでいればよい時代は終わった。祖父や遠い祖先に学ぶ時期が来ているのかもしれない。

posted by sponta at 06:36| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/118926241

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。