2006年06月27日

06_22〔市民はニュースを提供できるのか〕


 ジャーナリズムが扱う情報を、社会構成員にとっての有価値情報と定義しつつも、それだけではニュースにはならない。何もよりも「新しい」ことが、ニュースである重要な資格である。
 だが、実際はどうだろうか。
 情報提供者である市民記者が匿名にしたり、ハンドルネームで特定されないようなことをしても、記事の当事者が読めば、「あいつが自分のことが書いている」と分かってしまう。 そうなれば、市民記者と記事の当事者である取材対象との良好なコミュニケーションの継続は難しくなる。
 例えば、子供を学校に通わせている親が教育問題に直面したとしよう。だが子供を学校に通わせている限り、学校の批判記事は書けない。いくら社会正義を貫いたと胸を張っても、娘が自分の帰属するコミュニティーから異分子としての扱いを受けるのなら、メリットはない。書けるのは、娘が卒業してからである。
 市民にとってそれ程までニュースを書くことは難しい。
 何年か経って、自分に損害が及ばない頃になってようやくニュースをリリースすることができる。時間を経過しても、その記事にニュースバリューがある情報は、限られるに違いない。
 ただし、時間が経過しても、過去の情報が魅力を失わない場合もある。それは、個人という文脈で情報がリリースされる場合だ。
 たしかにニュースという意味では価値が薄くなっているのかもしれないが、個人というエッセンスを加えれば数ヵ月後、数年後の情報であったとしても、ニュースバリューはありつづける。何よりも個が個としての文脈を持ち続けてインターネットに存在することが重要だと思えてならない。

posted by sponta at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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