2006年06月27日

06_21〔市民は何のために生きるか〕


 人間は自分のために生きるものである。そう素直に考えてはいないだろうか。
 私が育った昭和30年代は、おせっかいでうっとうしいんだけど憎めない近所のおばさんやおじさんがたくさんいました。やれ「スイカを切った」、「赤飯を炊いた」と、近所のこども集めて振舞うおばさん。こどもが危ない遊びをしているのを見て本気で叱っているおじさん。
 昔はそういう、人間の善意に根ざした自然発生的な地域コミュニティーがあった。
 しかし、昨今では地域コミュニティーが崩壊したため、個人がそれぞれの生活の快適さや欲望の充足のことだけを考え始め、自分のためにしか生きることができなくなってしまった。でも、人のため、地域のため、世間のために何かをしたいという善意は人の心に満ち満ちている。それは、自然災害が起こるたびに自然発生的に起こるボランティアのうねりで実感できる。
では、何故、地域コミュニティーが崩壊したのか。
 私は、その原因のひとつに「私人のプライバシー権の乱用。および、その拡大解釈」があるのではないかと考えている。
 人づきあいが始まれば、摩擦するのは当然のこと。そして、そういう摩擦を乗り越えたときに御互いに対する理解が深まる。しかし、プライバシー権の過度の尊重という概念が、人付き合いへの勇気のなさに言い訳をあたえている。
 それは、フラットな人間関係の場合に顕著だ。地域社会や小学校の保護者会など、フラットな横並びの集団では、摩擦が起きても、それが集団全体の問題に発展しない。結果として、摩擦の当事者が集団から隔離されるだけ。これがコミュニティー崩壊の実態だと思う。
 横丁から雷親父が消えたと嘆く人がいるが、そういう人たちに限って雷親父を擁護しない。他人の子を叱っても、周囲ら白眼視されるばかりでは、雷親父が地域コミュニティーから放逐されてもあたりまえだ。
 現実の日本がそう動いていても、自分の実生活とは遠いところでなら、あるべき姿を模索できる。それが、インターネット上でこそ成立できる市民参加型ジャーナリズムの存在意義だと思っている。

posted by sponta at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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