2006年04月30日

01_08【堕ちていく私】


 このコメントが、私にとって事件発覚であった。このスレッドは2005年03月20日に始まっていて、すでに1000件を越えているから、2ちゃんねるにお金を払わなければ過去ログを見ることはできない。
 私は、それまでにも、BBSやブログでの経験から、インターネット上での感情丸出しの論争やスパムまがいの行為に私はある程度慣れていたと思う。また、インターネットで意見を言ったり、自分の身の回りのことを記すといっても、メディア的な世界とプライベートな世界の線引きは明確にしてきたつもり。
 臼井吉見の川端康成の自殺にまつわる小説の裁判沙汰も知っているし、柳美里の最近のできごともおさえている。だから、名誉毀損で訴えられるようなドキュメンタリーという手法ではなく、小説的な手法を用いていた。
 勿論、その裏には小説に対しての憧れもあり、インターネットは所詮バーチャルに過ぎないという諦念もあった。一世一代の大勝負ならば実名もよしだが、それ以外は勘弁だ。
 そういう思いは20年以上のテレビやラジオの制作の仕事をやってきた経験から培ったもの。だから、自分の中では破綻はないと決め込んでいた。だが、今回のバッシングは、その量と質が大幅に違っていた。


posted by sponta at 09:12| Comment(5) | TrackBack(200) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

googleを論じるエバンジェリスト(業界擁護者)の見識。

世の中のほとんどの人が、お金持ちになることを目標に生きているし、有名になることを目標に活動している人も多いと思う。だが、そのような人たちだけではない。それは、自分の顧客を守るために取材拒否を貫く頑固者のラーメン屋のオヤジばかりではない。
いったん巨万の富と名声を得てしまった人たちのほとんどが、それまでの「もっとお金を稼ぎたい。今後も世の中から注目されつづけていたい」と思いつづけていると、判断するのは正しいのか…。

お金を稼いだら、一番思うのは、税金を沢山払わなければならないこと。そして、有名になったらなったで、さまざまな批判にさらされることだ。だから、ほとんどの成功者たちは、無名時代の目標とは違う、もうひとつ別の目標をたてて、活動を始めるのではないか。
ビル・ゲイツにしても、最初は、スティーブ・ジョブスに負けまいとして、覇権をめざしたのかもしれぬ。
だが、それは、大多数を占めることでユーザーメリットを目指す目標に変質した。いまは、彼の傘下の企業で働く人たちの雇用確保のために働いているのかもしれぬ。



ウエブ進化論をはじめとして、googleをビジネスとして分析する本が多数出版されているようだ。

たしかにgoogleの発足当初は、ビジネスとしての確立をめざしたのかもしれぬ。だが、ビジネスとしての成功を求めるだけで、事業がすすんでいくのだろうか。
私はgoogleの経営トップのふたりの柔和な笑顔の写真を見ていると、利益だけを求めるビジネスマンの匂いを一切感じない。彼らのもとには、世界の俊英たちが集まっているというが、集まったものたちの求心力をささえるものが経済的な成功だと感じない。
ホリエモンのように社員たちを集めた会合で、「株式の時価評価額、世界一をめざします」などとgoogleのトップたちが叫んでいるとは、私にはとうてい思えない。

世界的な企業になった、googleの行動原理は、あるべき民主主義の実現であり、あるべき民主主義のあり方の模索だと思っている。彼らはいま、世界の情報のストレージを確立することと検索性を確立をめざしている。
今後彼らが何をするか分からないという人が大多数かもしれぬが、その先に進めるであろうことは、とても単純なことだ。ストレージだけで、パソコンが完成するはずもないのだから…。


OSを制覇することでアプリケーションの汎用性を確保し、ユーザーに利便性を与えたマイクロソフト。
インターネット上の情報を網羅することで、インターネット上の情報の高度な活用を目指すgoogle。
どちらも民主主義の思想によって支えられている。
もちろん、アメリカ的な覇権主義やアメリカ的な宗教感覚も含まれている。だが、良し悪しも含めて民主主義以外に、わたしたちの大部分を熱狂させてくれるものはない。
タカラヅカでは、「ベルサイユの薔薇」が再演されるという。かの劇画の最大のカタルシスは、果たされぬ夢、民主主義である。
もちろん、刀折れ矢つきたときに、googleの経営者たちが「アメリカ万歳」などというセリフを残すはずもないのだが…。

図説を試みた。

マズローの欲望段階説が一面の真理でしかないことは、すでに述べている。
暇な人しかインターネットをしない。暇な人しか社会に関わろうとしないという説が横行するのは、市民の発言を軽視させる雰囲気を醸成させることに、もっと多くの人が嫌悪しなければならない。

追記:
いくつかのサイトにトラックバックしようとも思ったのですが、大人気ないのでやめました。
どう考えても、共通の論理軸はありそうにない…。(^^;)


posted by sponta at 08:27| Comment(0) | TrackBack(298) | スポンタのウェブ進化論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月29日

こどもを人として扱うことの稀有さ。

彼女が言葉もしゃべれぬ頃から、私は、娘を人として付き合ってきた。こども扱いはしない。だから、娘はこどもこどもしないで、大人と接することができる。バンド活動やステージ活動も好影響を思しているかもしれない。
私は、こどもをこども扱いするのが嫌いだ。
よく子ども向けのイベントなどで、「みなさん、こんにちわ。あれっ、ちょっと元気がないなぁ…。もう一度大きな声で、みなさん、こんにちわ」ってのをよくやる。予定調和としても嫌だし、そのコメントの裏にあるこどもたちに君臨しているかのような気持ちが我慢ならない。
学校の先生たちにも、こどもたちを君臨する気持ちを感じることが多々ある。そういうのが許せない。

車で、娘に私の気持ちを説明した。
大人もこどもも同じ、魂はひとつだ。確かに計算を解かせればできないし、話すことも上手じゃない。でも、スピリチュアリスト江原さんの言うように、魂には、それぞれのオーラがあり、守護霊さんがいて、前世がある。

この間の朝、交通安全の黄色い旗ふりをして、小学生たちの登校風景につきあった。
黄色い旗を持った私に、「おはようございます」と声をかけてくれる子もいるし、黙って通り過ぎる子もいる。親の配慮が感じられる身なりの子もいるし、洗濯もされていない服を着る子、ぼさぼさの髪の子、よれって歩いている子。さまざまな子がいる。だが、すべての子が、小学校への道を歩いていく。誰も立ち止まらない。引き返さない。そのことに私は感動し、そういう子どもたちの生きる意思を尊いものと感じた。

学校で事件が起き、仮病をつかってずる休みをした私。伸びきった靴下のゴムが嫌でしょうがなかった小学生だった私。友達のハイソックスに憧れた私。我が家は貧乏だと刷り込まれていた私には、何も言うことができなかった。だが、借家住まいとはいえ、両親がそろっている家族だ。貧乏といってもたいしたことはない。

形は違うかもしれぬが、いま目の前を歩いていく小学生たちは皆、自分の現実と戦っている。すべてが尊敬できる魂たちである。


posted by sponta at 10:25| Comment(2) | TrackBack(251) | 子育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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