2005年12月31日

スポンタとは、中村厚一郎のことです。

インターネット上、ブログ上でキャラがかぶらないことを目標に書き続けます。よろしくお付き合いください。写真はズラをかぶってますが…。

以下は、私のキーワードです。

・21世紀は個の時代。
・個の時代の前提は、多様性の許容である。
・表現の自由という概念は時代遅れ。なぜなら、表現の自由は表現の不自由を許容しないから。

・親はこどもをペットにしてはいけない。こどもの召使いになってもいけない。
・喜怒哀楽でこどもと接しろ。

・流布の責任
・スモールワールド構想


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貧乏人の芸術論:演劇修行と自然主義

大晦日だからテレビを見る。正月はテレビを見て過ごす。これが日本の貧乏人の私の姿でもある。ことしの最後にふさわしいエントリーかどうかは疑わしいがお付き合い願いたい…。



先のエントリーで、ジャニーズ事務所を礼賛したが、自然主義だけで表現が成立するとは考えていない。本質的には自然主義とは長年の修行の先にあるものであって、修行を否定して表現が成立するほど、表現芸術は甘くない。

問題は、本来修行を必要とするジャンルの指導的立場にある権威を持った人たちが自らの技巧に誇りを持って新人たちを指導しないこと。逆に、空虚化した権威の補完物として新人教育をすること。または、尊大な精神で新人たちに接する巨匠たちの存在…。

劇団のすべての作品を自らが演出し、ポスターに出演者の名前をいっさい書かない巨匠もいる。ダブルキャストでもアンダーキャストでも書けばいい…。あの劇団を退団して実力を発揮している俳優たちは数知れない。日本にめずらしい黒字劇団だそうだが、芸術的評価の対象にされない不思議な劇団でもある。

そういえば、色紙を頼まれると「めだかの学校は川の中、誰が生徒か先生か」と書いていたのは、民芸の宇野重吉氏である。演劇というクリエイトの場では真理だけが追求されるはず。彼の劇団が大量の退団者を出したのもうなづける。
最近、泉ピン子のなつかしVTRで奈良岡朋子氏のナレーションを聴いたが、鳥肌が立つような寒気がした。私が二十歳の頃、ナレーションとはこういうものだと仰ぎ見た彼女のナレーションに、いま私の生理はかくも反応する。それは、技巧による芸術はいろあせるということを如実に物語っている。

修行で得た技巧をこえることが究極の芸なのだが、その究極の芸がときとして、あるがままの自然と似ている。その自然なるものは、修行を暗示しない。それでは、指導したものは報われない。逆にいえば、人工的で作為的な手垢がついたほうが指導者の存在を感じさせるから、指導者たちのプライドをくすぐるのだろう。

そのような複雑であり、単純であり、構造的な問題を抱えている演劇・映画では、なかなか個性を越えたメソードなるものが芽生えてこない。その理由は、表現の署名は個であって、それがメソードだとするなら、表現の主体を失うからかもしれないからだ。だが、それが当然のことなのかといえば、昔は松竹には大船調という作風があったし、東映にはヤクザ映画の路線があった。監督やシナリオライターの系譜をつづると、メソードとして体系化されていないにしても、流派というものが見え隠れした。



いま、表現者を要請したいと思うなら、まず行わなければならないのは、メソードの確立である。たけしが芸大の教授になって喜んでいる場合ではない。たけしはスケープゴートになっただけなのだ。本当にやるべきことは、流派ともいえるメソードを多数確立させることでなのだ。
メソードが明確でないばかりに、中途半端な作品が量産されている。昨今の若者はマニュアル世代。ことの次第をメソード化することで、ひもといてあげればいい。

中途半端な作品が量産される背景は、才能ある作家の不在ではない。魅力ある作品を選別するメディア人たちの見識眼をあげることである。でないと、たまたま作品をつくるチャンスを得た人が映像をつくる前近代的な業界構造がつづくだけだと思われる。

手塚治虫は、「マンガを描くならマンガを読むな」と言っていたっけ。同じことが英語についても言えると思う。そう思っている私は、タランティーノの一部の映画を評価しない。当然のことである。

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2005年12月30日

ジャニーズ事務所は白樺派である。

「ユーもステージにでちゃってみるかい」
ジャニー喜多川氏の言葉である。
所属タレントたちは、事務所のスタッフたちには敬語を使うが、ジャニー喜多川氏とはタメ口らしい。
家出して代々木公園で野宿している少年を、イヌの散歩をしているジャニー氏が出会い、彼をトップスターの一員にしたというエピソードも。

人間は終わりなき日常を生きている。だから、非日常であるステージは、人間を変える可能性がある。
非日常を持たない人はかわいそうだと思う。だから、こどもたちにステージの機会を提供している。

Show must go on.とはいうけれど、ほんとうのことをいえば、Life must go on.である。
そして、「ショーほど素敵な商売ではない」ではなく「素晴らしき哉我が人生」。



ときとして、子が先生になることもある。ジャニーズ事務所については、娘に教えられるばかり。娘につられてジャニーズタレントの出演するドラマや音楽番組、バラエティーを見ている。娘は画面に集中したいらしく、私がいると2階にあがって、一人で観ようとする。

私は最近、ジャニーズ事務所のタレントたちをみながら、こいつらがやっているのは白樺派だ。と、感心した。

下手な芝居や、下手な歌という見方もある。だが、そんな不出来なものを舞台に乗せてしまうジャニー喜多川氏の度量。その先に見えてくる個性の輝き。それがジャニーズの若者たちの魅力だ。
劇団四季や宝塚歌劇団の俳優たちが、その組織を抜け出てから輝き出すことを考えれば、理解してくれる人も多いだろう。

ジャニーズに群がるファンたちは、彼らの姿かたちだけに熱狂しているのではない。日本の芸術のひとつの側面ともいえる自然主義を愛でているのだ。あなどってはいけない。

posted by sponta at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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