2005年08月10日

日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(8)

私が考える市民参加型ジャーナリズムの記事の一般的なタイプは、ニュースショーなどでスタジオと回線からつながれたテレビでの現場からのレポートだ。現場のレポーターは、客観的な立場から現場をリポートするが、最終的にはスタジオのアンカーマンから感想を聞かれ、自分の意見を述べる。そういう按配が標準であって、新聞の三面記事のような記者の視点はおろか、記者が存在さえしないような記事は興ざめだと思う。
そして、記者の中には、木村太郎氏や田原総一朗氏のように自分の意見を大々的に述べる記者もいるだろう。

たんなる感想でも記事としては成立するのだろうが、私は感想だけの記事は書かない。そう読んでもらえなければ自分の筆力を反省するしかないのだが、たとえテレビ番組を取り上げる場合でも、問題点を指摘し、現状の改善を求める取り上げ方をしてきた。テレビ番組の社会的な影響力を考えれば、問題を指摘することは意味があると考える。
私は、そうした記事の有用性こそ、市民が重い腰をあげて参加する新しいメディアの意義だと思う。
もし、市民記者が自分の感想を述べることだけで終わってしまうのならば、それは有名になりたいという自分の欲望に他者を巻き込むことにしかならない。そういうものも全否定はしないが、そういうものが横溢するようなメディアの有用性は低いと思う。
日本人は四季とともに生活しているから、花鳥風月を記事にすることもいいだろう。また、そういうものは新人市民記者がはじめて記事をあげるには格好の題材だと思う。でも、だからといって、そういうものばかりでメディアを埋め尽くしていこうという姿勢には納得がいかないのである。

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2005年08月05日

インターネットで、わしも考えた。(3)

インターネットは無限の地平だから、合議や評決は必要なく、すべては、「この指とまれ方式」ですすめればいい。と書いた。

「この指とまれ方式」を簡単にいうと、小学校の20分休みの遊び方のようなもの。

ドッチポールをやりたい人はやればいい。やりたくない人はやらなければいい。はじめの一歩をやりたい人はやればいい、やりたくない人は参加しなければいい。本を読みたい人は読んでいればいい。将棋をさしたい人は将棋をさしていればいい。話し合いも多数決も必要はない。
誰かがやろうと言って、やりたい人たちがやればいい。やらない人を仲間はずれにする必要もないし、やる人を非難することもない世界。それが私の言う「この指とまれ方式」。

インターネットと小学校の20分休みを一緒くたにするのがスポンタらしさかも…。


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2005年08月03日

インターネットで、わしも考えた。(2)



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インターネットで、わしも考えた。(2)

インターネットは無限の地平だから、意見は対立しない。
あくまでも並立。

だから、合議や評決は必要なく、すべては、「この指とまれ方式」ですすめればいい。

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※「女王の教室」に文句を言う人がいる。だが、文句を言う意味などない。自分が見なければいいのだ。そんな話…。

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