2005年05月20日

提言:ギター侍よ。そろそろ波田陽区に戻れ。

テレビを見ている。お笑いブームはまだ続いていて、お笑い番組の勢いは衰えていない。
最近では、青木さやかや長井秀和などのお笑い番組で知名度を得た芸人たちが、バラエティー番組やドラマにキャスティング。あらたな魅力が引き出され、テレビに出続けられる既得権を獲得している。

さて、このお笑い芸人の出世コースから外れてしまっているのが波田陽区だ。彼は、いまだに着流しにギターというスタイルでしか、テレビに出演していない。ブレークしているときは、それでいい。どんなに毛色の違う番組でも、着物姿の異形のタレントが登場すれば、場の雰囲気は一変する。
スタジオも視聴者もギター侍の「斬り」を期待しているから、それでコーナーが成立する。だが、ブレークが終わったとき、彼の旬も終わってしまう。

「なんでだろう」で一世を風靡したテツ&トモが、いつの間にかテレビで見かけなくなったのは、そういう理由。
彼らと同時期にブレークしていまだに生き残っているのが、はなわだ。彼は、佐賀県ネタを都道府県ネタに発展させ、さらに、ガッツ石松伝説、そして、輪島功一ネタと、次々に新ネタを発表しつづけて人気を保っている。

勿論、一度ブレークしてしまえば、営業で数年は食べていけるだろう。つぶやきシローは一時期死亡説が流れたが、引退もせずに仕事を続けているという。だが、波田陽区がそれではちょっとさびしい。
最近の彼の斬りネタは、考え落ちや言葉遊びが主流になり、ひと頃のような毒舌は影を潜めている。彼が有名になり、芸能界の知人が増えたため、彼本来のやさしさが斬れ味を鈍らせた理由のひとつかもしれない。

波田陽区よ。そろそろ、着流しとギターを捨てよう。
だって、その扮装がつらくなっているのは、観ている視聴者の側ではなくて、やっている君のはずなんだから…。

新しい波田陽区が注目されるには、いまがギリギリのタイミングかもしれない。

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「踊る大走査線」のスピンオフ。そして、学芸会

映画「踊る大走査線」がヒットしたのは記憶に新しいが、いまユースケ・サンタマリアが主役を演じる「交渉人・真下正義」という映画が封切られている。今年の夏には、柳葉敏郎が主役を演じる「容疑者・室井慎次」も公開を控えているといい、主役を主人公にしない続編・番外編がつくられるというのは目新しいことで、スピンオフという言葉を最近知った人も多いのではないだろうか。

さて、「踊る大走査線」大ヒットの最大の要因は、織田裕二演じる青島刑事の魅力だったに違いない。
だが、このようにいくつものスピンオフが成立するところをみると、実は、この作品の本当の魅力は、湾岸署に集まっていたさまざまなキャラクターたちの魅力だったのだと思えてくる。
キャラクターの魅力とは何か。それは、キャラクターがそれぞれの人生を一生懸命生きているかどうか。彼の情熱や辛さ、苦闘を見ることによって、観客は感動を得る。

黒澤明は映画「七人の侍」において、主要な登場人物の数だけシナリオを書いたという。倉本總は、すべての登場人物の履歴書を書くことから仕事を始めるという。
登場するキャラクターのすべてに命が吹き込まれていることは、ドラマ作りにおいて当然のことだろうが、主人公を引き立たせるために、輝きを失ったキャラクターがご都合主義で登場することも多い。

「世界にひとつだけの花」というスマップの歌がヒットした。その歌詞は、人生において誰もが主役であることを謳っている。主役と脇役。そんな固定的な概念が一連のスピンアウト作品によって壊れていくなら、こんなにすばらしいことはない。

わが娘の小学校では、秋に学芸会がある。前回、彼女の役は街の人。一言セリフを言う以外は、主役を演じる同級生たちをつまらなそうにながめていた。客席で見ていた私は、指導する教員たちが主役にしか目配りが行き届いていなかったことを感じた。
今年も娘が主役を張るようなことにはならないだろう。だが、「踊る大走査線」のスピンオフを観た教員たちが脇役の魅力に目覚め、いままでの指導が変えるようになったら…。
ステージの上のすべてのこどもに愛情を注ぐ。教室では難しいことかもしれないが、2年に1度のステージでなら可能なはずだ。

posted by sponta at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月17日

丸暗記はだめ。(いまどきの小学校から)

娘が学校の宿題で自宅のパソコンで調べ物をすることがよくある。
このあいだは、点字を発明したというルイ・ブライユに関して。どうやら国語の教科書に点字に関する文章が載っていて、それを自分で調べてみようという趣旨の宿題だったようだ。
小学校5年にしてようやくローマ字入力もできるようになったし、検索エンジンの使い方もなんとか理解している。さすが平成生まれのこどもだと感心してみていたが、そこで娘は立ち往生してしまった。
たしかに目的のページには到達することはできた。しかし、インターネットの大人向けにかかれた文章から、重要な部分を見つけ出し、要約してまとめることは、彼女にはできない。
私はプリントアウトしたページから重要な部分に線を引き、それを要約して娘に教えたが、仕事で文章を書いている私でも厄介な作業。私は、そんな難しい宿題を小学5年生にやらせることに疑問を持った。

最近のことである。妻が担任の先生と面談をした。妻が先生から聞いた話では、教員は丸暗記を指導してはいけないと指示されているそうである。そう言われて教科書を見ると、憶えるべき項目が見当たらない。
先生は、「憶えなさい」と指導することは許されず、「自分で考え、自分で発想しなさい」と指導しなければならないのだとか。そこで私は納得した。憶えなさいの代わりに、調べなさいという指導がなされ、それが結果としてパソコンでの検索の宿題に結びついているのだ。

授業時間が減ることにより、基礎的な学習が減るのは仕方がないことかもしれない。しかし、現状はそれだけではなく、基礎的なこともできていないのに、発展的な課題や応用的な学習がすすめられている。さすがに九九の暗記や漢字の書き取りはなくなっていないが、小学校で「憶える」という学習の基本を習得されないまま中学生になったこどもたちが中学校の勉強で挫折するケースが増えていると聞く。
九九にしても漢字にしても最初は丸暗記。それが日々の学習で使わながら、次第に深く理解されていくのだと思う。
ゆとり教育が見直されている今だからこそ、文部科学省は、基礎的な学習の重要性をもう一度考えて欲しいものだ。

posted by sponta at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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