2004年12月31日

ドラマの力

朝から年賀状をデザインし、いましきりに刷っている。
傍らではテレビがつけっぱなし。
朝からドラマを見ている。



午前中は、「ごくせん」。
午後は、「踊る大走査線」。

両方とも、組織の下部で個性的な人間が騒動を起こすもの。そして、組織の上部にいる人間は、自分の個性を押さえようとしているが、最後には、そうした無理に耐え切れず、組織にはむかう。そういう設定だ。

末端で個性的に振る舞うのは、ごくせんでは、仲間ユキエであり、踊る…では、青島刑事。
そして、組織の集団としてのジレンマに陥るのがごくせんでは教頭であり、踊る…では柳場敏郎だ。

ドラマの世界では、個人があたらしい時代を切り開いている。
もう、「スーホーの白い馬」を愛でている時代ではないのである。

※スーホーの白い馬とは、モンゴルのお話し。王様に自分の馬を取り上げられてしまった少年が、現状と戦うこともせず、馬の亡骸でつくった琴で、泣くというもの。
封建主義肯定の物語でしかないのに、その話を美しいという人がいる。…不可思議だ。



誰もなしとげられなかった日韓親善を、「冬のソナタ」というひとつの連続ドラマが変えてしまった。
ある意味、これはベルリンの壁の崩壊だと思う。

マスコミの報道流儀というのは、無意識の大本営発表でしかない。そういう紋切り型に対する反省を大いにすべきである。

久米宏氏がニュースステーションを去ったことが残念だ。

posted by sponta at 15:55| Comment(4) | TrackBack(1) | 時代の空気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

占いとは配牌である。

細木数子がテレビに出ている。
柔ちゃんが金メダルをとれないといったのに、結果とった。しかし、女史は反省もしなければ、つべこべ言う。

私自身、彼女が言うつべこべが間違っているとは思わない。だが、どこか理解しきれないものを感じていた。

そこである考えにぶちあたった。



占いとは、配牌のようなものである。
配牌とは麻雀で最初に配られる13枚の牌である。

この牌の良し悪しで結果はある程度みえてくる。
しかし、それで和(あ)がれるかどうかは、その人しだい。
そして、ツモもある。ツモは周りにいる人の動向で変わる不特定要素でもある。

運気というのは天がもたらすものであって、その下で、人間たちの攻防があり、あがるもふりこむも、その人次第なのだ。



細木数子は、あがれるかどうか、ふりこむかどうかに言及しているのではない。あくまでも配牌の分析をしているにすぎない。

…そう思うのだが。

posted by sponta at 11:22| Comment(0) | TrackBack(98) | 時代の空気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人間のすべての欲望を解放しなければ事件はなくならない。

奈良の犯人が逮捕された。何故なのかはわからないが、犯人の写真が大写しになる。
きっとこれは関西だからだろう。
犯人を糾弾する社会感情と、ロス疑惑のM氏のような裁判を経験していないことから、関西マスコミ発信でおこなわれているのかもしれない。



犯人の醜悪さは勿論のことだから、言及しない。



問題の再発を防ぐのは、すべての人間の欲望を解放することである。
すべての人間の欲望が明らかになってはじめて、その中で社会適合性のないものを矯正するとこができる。

人間のすべての営みは正常である。
それは、すべての人間の行為が人間がなしたことであるのと道義。
どんなにひどいことだって、「あれは人間のすることではない」というのは泣き言にすぎない。
逆にいえば、そういうことをする人は人間ではないと限定するならば、風が吹けば桶屋が儲かるのたとえではないが、差別社会でできあがっていくのだと思う。



病気も死も人間の正常な営みである。
その証拠に、病の結果である死。死なない人間がいたとしたら、それは異常である。
人間ではない。それは無機物やスピリットのようなものかもしれない。



人間であることをどこに求めるのか。
犯罪者も人間であるという事実。
13階段を前に、聖職者が死刑囚にケアをするというのでは遅すぎる。それでは敗戦主義だ。

すべての欲望を開放し、さらけだし、それぞれの欲望の同好者たちが、自分たちの理不尽な欲望や性癖と社会性の折り合いをつけるべく努力する。そして、その周辺の人間が相談にのる・治療する。そういうことが必要だと思うのです。

性不同一障害者たちには、オカマバーというぎりぎり社会との接点を持つメディアがあった。しかし、それ以外の異常者(一般的に言う)たちにはそういうメディアがない。
歪んだ欲望は行き場を失ってある日暴発する。



現実を認めないと、問題や犯罪の解決法は検討をはじめることはできない。



追記:
これは、けっして唐突な話ではない。
こういう作業を野村芳太郎や今村昌平がやっていた。

エンタテインメントだけがドラマの本懐ではない。
ドラマが日韓の交流のかけはしとなる。
ドラマが更年期障害を治療する。

ドラマの力。映画の力を私は信じたい。

posted by sponta at 07:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時代の空気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。