2004年11月30日

心理学と哲学

わたしがこどもの頃は、哲学という未知の学問に対する憧れがあったと思う。

哲学的だ。などという形容もあるし、哲学を勉強しないまでも、そういうものに対する興味が一般の人にもあったと思う。
つまり、西田幾多郎とか、ハイデッガーとか、一般の人も名前ぐらいは知っていただろう。…だが、今。

代わりに、人々の興味をとらえているのは、心理学だと思う。奥様がカルチュアセンターに通う感覚で心理学を勉強しているのは、ありふれた風景だと思う。



ここで、私なりの分析を…。

20年ぐらい前までは、哲学を通じて、自分の存在と死について青年が考えることがテーマであった。戦前、人生不可解なりといって自殺した東大生がいたというし、そういう人間存在の根本的な問題について真剣に考えるという風潮があったと思う。

これは、明らかに、幼少期に良心からの愛を受けることで自己のアイデンティティーを養っていた人たちが、社会的地位を獲得したり、収入を得ることで自己のアイデンティティーを確立する前の、アイデンティティーが不在・不安定な時期には、あって当然の葛藤だと思う。

しかし、今。
哲学にとって代わって、心理学。

青年期という自己のアイデンティティーの不在時期に、その葛藤の矛先が人間の心理に向かうということは、彼らの一番の関心事が人間のコミュニケーションであることの証明である。
良心の愛という至上の愛に疑いをもちはじめた青年たちは、本来「自分はなぜ生きているか。なぜ生きていくか」という問題と立ち向かわなければならないのに、そういう切実な問題と向き合うことを良しとせず、人間同士のコミュニケーションでお茶を濁すのだ。

なぜ生きているか。そんなこと誰にも分からない。でも、そのことを問い詰めることによってのみ、自分の足元が定まり、自立した人生を歩んでいけるのだと思う。

心理とは心の現象であって、人間の本質ではない。

人間の本質と格闘したことのない人間が脆弱なのは当然だと思う。

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2004年11月29日

児童館まつりにて、小学生バンド、ステージにのる。

昨日、11/28の13時からグランドに、児童館前のグランドに設営されたステージで、小学生バンドをやった。
曲目は、幼稚園児をボーカルに、散歩。
小学生をボーカルに、ビリーブ、アンビシャス・ジャパンの3曲だった。

大人はMCのカミサン、キーボードの自営業の私、ベースの団体職員、リードギターの病院職員。
こどもは、年少、年中、小学3年生3人のボーカル隊。
わが娘はドラム。
現場調達で一般参加を促したが、幼稚園児が2人乗っかるぐらいでした。

観客は、お祭り会場の一角だったので、数百人はいたと思う。
自分たちの小学校のクラスメートたち、保護者たち、先輩たち、そういう地域の人たちの中でステージに立つことに意味があったと思う。



人前に立つなんてこと、学芸会や運動会でよくあることだと思う人もいるかもしれない。
だが、そんじょそこらのステージとは理想が違う。
ピンで立つこと。自分を表現することを目指す。

その他おおぜいやワンオブゼムではない表現・発現。
出し物に負けない表現。
個性の表現。

北朝鮮とは言わないが、そういう全体主義、個性無視の学校行事やお稽古事が多い。
教員は、みんな平等の建前の中で行われる、死んでいるような舞台。(代々木系の人たちは、まだ共産主義を信じているのだろうか…)
こどもたちは、目立つといじめや仲たがいの原因になるから、個性を発現しない。
おけいこごとでも、レッスンの進度のみ尊ぶ保護者たちに圧されて、アップアップの出し物が繰り広がれる。そこに、こどもたちが個性を発現する余裕はない。



現実は…。

バンドマスターの私が、本番でいっぱいいっぱいになり、楽器は壊すは、譜面を読みとばすは、最悪の結果でした。

とはいえ、こどもたちにとっては貴重なステージ経験になったと思います。

人前に自分を晒すこと。
そういう経験が度重なることによって、自分自身の殻が破れていく。
それぞれのこどもたちにとって、なんらかの成長があったと信じる。

そして何よりも、一緒にステージを体験したもの同士は、とても仲良くなれる。



気分は、ジャニーさん。
「YOUもステージに立ってみるかい」

posted by sponta at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 地域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

個が個として生きる。

それは学校の先生も同じこと。

水戸で、鉄アレイで息子に殺された中学校の先生は、「進路について、親と子がよく話し合ってください」と、学年のプリントに書いていたという。

「よく話し合ってください」という言葉の抽象性にだまされてはいけない。

話し合うということの厳しさを思い出さなければいけない。

本音で話し合うことの難しさ。
私は娘と話しているほうだと思うが、私が一方的に話していると反省する。
たまに娘が私に話しをするとき、それが私が前に言った意見と同じだと感じることもある。
そういうとき、私は、娘が私の意見に同意してくれたんだと思う一方で、私には、そういう言い方をしておいたほうが無難に会話がすすむと、娘が感じているんだろうな。
…と、思う。

本音で話し合うことは難しい。
本音で話しあって決裂してしまった場合、どうやって修復したらいいのか…。
とっても難しいし、危険な問題をはらんでいる。

その危険性は、それをしなかったばっかりに、殺人事件がおきることが証明している。
言葉のイサカイのほうが、殺傷事件よりまし。実際に事件が起きる前に、そういう心境になるのは難しい。

そうした覚悟で、話し合いを続ける。
そういう努力と根性が人間関係に求められるのだと思う。



個の意見の対立をさしおいて、コミュニケーションを図るなど所詮無理な話。

私は少年が凶行に及んだ理由は、そういう教育現場の歪んだ理想主義・事なかれ主義を行動原理にしてしまった頑迷な中学校教員が自分のこどもに強いた友愛精神・博愛精神。

それにつきると思う。


posted by sponta at 10:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 小学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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